世界真光文明教団

岡田光玉 略歴

明治34年2月27日本名「岡田良一(おかだよしかず)」誕生。
東京青山生まれ。6人姉弟の唯一の男子。
大正9年陸軍士官学校に入学。(最終階級:陸軍中佐)
大正11年陸軍士官学校を卒業。
宮城守護が役割の、近衛師団歩兵大一聯隊に配属。
昭和12年大本営第一鉄道輸送司令部課長となり、上海作戦。
杭州湾作戦、南京攻略の輸送作戦責任者として活躍。
昭和12年11月5日日本軍、杭州湾に上陸。
参謀本部は作戦区域を上海西部の蘇州〜嘉興のラインまでと指示。
昭和12年12月10日日本軍、南京攻撃開始。
昭和12年12月13日南京攻略、南京事件。
昭和13年馬とともに転倒し脊椎を損傷。
昭和16年ベトナムに出兵、病気が再発し内地に送還。山梨県大月市に疎開。
「三年の命」と宣告されたが、カリエスで入院中、井上甲子(後の岡田恵珠)と出会う。
そこで世界救世教を知り、その後世界救世教の浄霊(手かざし)により救われる。
この時期、世話になったのが彼女の実家の2階である。
昭和20年米空軍の空襲で軍需工場(航空会社)消失。
手をかざせ!の「天の声」に従い、苦しんでいた犬に手をかざす。
神の世界を解明する為に、心霊研究や各宗教の研究に入る。
昭和22年頃井上甲子(後の養女&愛人:岡田恵珠)と2人で、名古屋地方にあった世界救世教に入信。
昭和28年建設会社の重役に就任。
昭和32年頃信者に「光玉先生」と呼ばせるも、世界救世教和光布教所長の職を解雇される。
禁止されていた浮霊現象に着目し、救世教の方針に反して8番(額)の手かざしを続けた事と
女性信者の秘部に触れて悲鳴を上げられ布教所内が騒然となった事の責任を追及された為。
(その後2年ほど一般信者として在籍)
昭和34年L・H(ラッキー・ヘルス)陽光子友の会を主催。
借金の完済。(タビを売って借金を返したのでは無く、救世教からの給料と信者より巻き上げたお布施で返済)
妻と離婚。妻と実娘(2人)は親戚をタライ回しに。
岡田光玉は親類縁者と絶縁状態になり、彼の姉や妹、それに甥も姪も、誰一人として真光に入信しなかった。
同時期、岡田恵珠を養女とする。
昭和34年2月27日58歳の誕生日。
午前5時、5日間の人事不省の後、雷鳴轟く午前5時、立教に関する神示(光玉と名乗れ!手をかざせ!)降りる。
昭和34年5月15日神示
「汝のみ魂疑うもの、神主仲間にも出づべきも、その時はその時にて、神のみ使い明かなに告げん。」
昭和34年6月19日大田区大森の天祖神社で第一回初級研究会を行う。
昭和35年関口栄氏と共に、真の道教団訪れ「天杖」という自動書記(中国道教のフーチ)によるみ魂調べ。
昭和37年真の道教団、ヨ宮真光呂斎主。
昭和37年2月東京羽根木に元み魂座(東京にある二階建ての普通の日本家屋)が遷座。
昭和38年教団名を世界真光文明教団に変更。
昭和38年11月世界真光文明教団に宗教法人の許可が下りる。
岡田光玉(聖鳳)師初代、教え主となる。
昭和49年6月23日幽界誕生(他界)。享年73歳。
死因は脳溢血。全国の信者が病院(東京)に向かって手かざしするも効果無し。
後継者を正式に指名しないままの死去だった。


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