救い主の軍歴
1投稿者:もとくみて  投稿日:2009/08/10(月)02:09:00
組み手になった時、岡田光玉に大日本帝國軍人の過去があることを聞いて
ショックだったことを思い出しました。
真光の出版物「大聖主」によれば、光玉は、陸軍士官学校へ入学しました。
1922年(大正11)に、陸軍士官学校を卒業、宮城守護が役割の、近衛師団
歩兵大一聯隊に配属になり、聯隊騎手を命じらた。(P.19/P.60)
1931年(昭和6年)、近衛歩兵第一聯隊第六中隊長に任官した後、陸軍歩兵
学校教官となった。(P.21/P.62)

1931年日本軍は、中国との間に満州事変となり、満州に侵入しています。
岡田光玉教え主は、「大聖主」によれば、1937年(昭和12)、大本営第一
鉄道輸送司令部課長となり、「上海作戦、杭州湾作戦、南京攻略の輸送作
戦責任者として、活躍された。」とあります。 (p.62)

光玉は、日本軍が杭州湾に侵入している時、「当時、私は、後方鉄道の一
部を預かっていた。或る時、高熱のため止むなく、寝台の中に、電話機を
引き込んで、指令や連絡に、眠る暇もなかった。」と書いています(P.63)
上海の仏蘭西人の聖路加病院にしばらく入院中、「今南京の、血みどろ
の、動の極地にある友軍も、今宵の今は、将に静なるか、動なるか。」と
考える。(P.66) 言い換えれば、南京強奪事件には光玉は加わらなかったと、崇教では回りくどく言っているのです。
2投稿者:もとくみて  投稿日:2011/04/08(金)16:47:13
世界真光文明教団初代教え主 岡田光玉とは?

1960年の安保騒動では、岸信介内閣の意を受けた児玉誉士夫の要請に応じ、
「生長の家」などと共に信者を「警官補助警備力」として動員した。
1962年、現界は『火の洗礼』に突入したと発表し、そのピーク(大峠)は20世紀と
21世紀の交流する頃に来ると警鐘を鳴らした立教以来の神示をまとめた
『御聖言集』(1969年刊)では序文に 「二十世紀人類の終末への警世の書」
 「人類文明の崩壊、終末、 断絶の危機は目前」と記され、「オウム真理教の
終末論との類似性」があった。 翌年、教団名を世界真光文明教団に変更。

右翼思想から国政参加を企図し、参院選全国区で矢田ワ一(1971年)、内田芳郎(1974年)を
推薦、組織を挙げて応援したものの、何れも落選した。

初期研修会では「薬害を批判」し、薬害問題追及で活躍していた高橋晄正を講演会に呼んだり、

環境問題にも関心を示したが、岡田自身は愛煙家のため「タバコの害には言及せず」、

「天変地異が来ると言いながら原子力発電所の建設に反対しない」など、矛盾した姿勢を見せた。
3投稿者:Z  投稿日:2011/06/03(金)16:19:24
世界真光文明教団創始者 岡田光玉師の経歴
明治34年2月27日:岡田良一氏誕生 
大正 9年  :陸軍士官学校に入学
昭和12年:大本営第一鉄道輸送司令部課長となり、上海作戦、
     杭州湾作戦、南京攻略の輸送作戦責任者として活躍。

同年11月5日 日本軍、杭州湾に上陸。参謀本部は作戦区域を上海
       西部の蘇州〜嘉興のラインまでと指示。
同年12月10日 日本軍、南京攻撃開始。
同年12月13日 南京攻略、南京事件。

昭和13年:馬とともに転倒し脊椎を損傷
昭和16年:ベトナムに出兵、病気が再発し内地に送還。
「三年の命」と宣告されたが、カリエスで入院中、井上甲子(恵珠)と
出会う、その後世界救世教の浄霊により救われる。

昭和20年:米空軍の空襲で軍需工場(航空会社)消失。
昭和22年頃:岡田良一、井上甲子さん(後の養女:岡田恵珠)、と
      二人で世界救世教に入信。
昭和32年頃:岡田良一師、信者に「光玉先生」と呼ばせるも、世界
      救世教和光布教会長の職を、解雇される。 
4投稿者:削除 投稿日:削除
削除
5投稿者:匿名  投稿日:2012/02/14(火)21:32:53
文明の教祖、岡田光玉は、陸軍士官学校卒で、最終階級が 中佐 であった

文明の部長の友森清晴氏は、陸軍大抱く卒のエリートで最終階級が 大佐 で光玉より上だった。
骨肉の分裂裁判の後敗訴した、K酒さん側の崇教に付いたのが、友森大佐率
いる、元軍人達であって、軍隊を基にした 真光隊 を作ったのであった。

文明の関口栄氏は、軍人が嫌いだったので真光隊は存在しない。
6投稿者:匿名  投稿日:2012/02/16(木)15:31:43
岡田光玉は元世界救世教の布教師だったとか、妻と娘2人を捨てて変りに
K酒さんが転がり込んできた妾とか、光玉の軍需工場がB29の空襲で焼かれ
長靴や足袋の行商で莫大な借金を返したとか、よくわからないことだらです。幹部も答えないのです。よけい気味が悪い。

八坂東明の本にも書かれていたけど、外部の人が見ても納得できる
証拠が無いし北の将軍様のように、教え主を称える作り話かなぁ
と思いました。
7投稿者:tokumei  投稿日:2012/02/17(金)00:46:48
真光「30年史」p83・p162・p272参照より

・東京羽根木に元み魂座(東京にある二階建ての普通の日本家屋)が遷座
(創設昭和37年2月)・・

- - - - - - - - - - - - - - - - -
岡田光珠は、戦後、工場が全焼して、借金返済で苦しんでお金に困っている
筈なのに、なぜ東京に「二階建ての日本家屋」が建設できるのか?

○そのお金は天から降ってきたのか?
○光玉の話に騙された人が寄付したものなのか。
○信者の奉納か援助金があって買った家なのか。

真光信者は、こののような「現実の事実には触れない傾向」にある。
8投稿者: 投稿日:2012/03/04(日)21:57:34
岡田光玉の歴史!

「御対談集」で光玉は、「私も飛行機会社の社長をしていたくらいだから、
一通りの科学的常識はある...科学的常識で判断する」の表現と、
中級研修用テキストの「...いわば宗教とは全く違った道を歩んで来た」という
表現は「最初の啓示」以前に「手かざし」を全く知らなかった、やったことがなかった、
という意味合で、共通しています。
しかし、これらは崇教真光の主張と食い違います。

崇教真光(八坂東明代理の本「最後の天戸開き」)では、
「戦後間もなく、ふとしたことから、瀕死の犬に手かざししたら、犬が治ってしまった、
それから、手をかざしたら奇跡が次々に起こった、びっくりして、必死に心霊や宗教の
研究、神の世界の勉強を始めた」と言っています。
★神の世界の勉強をした★ということは宗教分野に足を踏み込んだということです。

崇教真光の主張を採るなら、中級研修用テキストでの「いわば宗教とは全く違った道
を歩んで来た」という記述は「嘘」になります。
9投稿者:清治  投稿日:2012/11/01(木)17:24:42
戦後、岡田光玉は、世界救世教に恋人の井上甲子さんと一緒に入信し、
手かざし(浄霊)を10年間実践し、専属幹部(布教師)なった。
しかし、救世教で禁止されている浮霊に興味を持った事と、女性信者へ
のセクハラ行為(女性信者の秘部に触れて悲鳴を上げられた)により、
幹部の職を罷免され、その後、2年ほど一般信者となり辞めている。

しばらくして、昭和34年LH陽光子友の会(後の文明教団)を主宰する傍ら、
昭和37年当時、真の道教団「ヨ宮真光呂 斉主」となっている。

昭和34年、人事不省の後、雷鳴轟く午前5時「光玉と名乗れ! 手をかざせ!」と主神より啓示が降り、世界真光文明教団を立教する。
この教団の教えや、宗教的儀式は元在籍していた世界救世教のパクリで
あった。

また、崇教公式HPでは「医学と十字を組む」とか
「手かざしは病気治療ではありません!」と説いていますが、
「御対談集」では、光玉はハッキリと「病気治し」と書かれてあり、
 崇教の説くことと食い違っています。

だから、啓示が降りる前から「救世教で手かざしして、光玉先生と呼ばせていた」し、「病気治療体験談を聴かせて勧誘」しておきながら、入信すると「病気治療ではない」 というから イ ン チ キ だと言われるのだ!
10投稿者:馬場  投稿日:2013/02/27(水)17:33:18
〜旧日本軍陸軍中佐 岡田光玉の罪深き行為〜

崇教魔光の中・上級研修等では、イエス=キリストは、ローマの偽政者による
十字架刑を逃れ、青森のヘライ村へ行って108歳で亡くなった事になっています。

クリスチャンにとってこのような捏造話は、おぞましい限りで真光は、
イエス=キリストを貶めるような教えを説いているのです。
崇教真光のお代理(岡田泰六)は、青森へ行ってイエスの墓を教団に報告していました。
話のネタ元は、「竹内文献」から引用したものです。

パクリ情報で、イエス=キリストを貶める真光・・・万教帰一・・・呆れますね。
11投稿者:馬場  投稿日:2013/02/27(水)17:37:12
初代は、陸軍中佐で天皇崇拝者で、ヒトラーを火と崇め、ナチスの
ホロコーストをユダヤ人の禊ぎと容認した。
文明教団のだったころの古参の上級幹部がどういう連中だったかが、
解る要するに、真光は軍人だった光玉と兵隊ヤクザの極右・国粋主義者
(おそらく戦後BC級戦犯として投獄されていた・友森清晴部長(元大
佐))の連中が戦後始めたインチキ商売だ。

宇尾は(元軍曹)レスに書いてあるが、崇教きっての実力者岡崎は、崇教
真光推奨校淞南学園理事長 崇教真光顧問 光記念館館長 大正9年7月
17日島根県生まれ 中学卒
島根県戦争受刑者世話会事務局長
島根勤皇まことむすび 幹部 皇国義勇隊 幹部

出典  公安百年史-暴力追放の足跡
藤田五郎著  公安問題研究協会 S53.4.5刊行
ようするに公安にマークされている、右翼団体の幹部・極右・国粋
主義者だ、ヒトラーを信奉している。岡崎はこういう兵隊ヤクザの幹部
どもを嫌ってたから、青年部を軍隊組織にしなかったんだ。
12投稿者:天狗の鼻  投稿日:2013/03/04(月)00:26:16
世界真光文明教団の関口栄二代教え主の自伝に
岡田光玉初代教え主の事が書かれておりますが
岡田氏は戦時中飛行機を作る会社を経営していた
事があって戦後アメリカの占領軍に戦犯?容疑で
狙われていた時期があったらしくその時に家族を
巻き込まないように離縁したようです。そして
一人で身を隠していた時期があったようでこれは
憶測ですがその時に恵殊さんと出会ったのでは?
又救世教にも入ったのではと思われます。

崇教では絶対言わないような事がこの本には書いて
ありますよ。最初の立教の時の経済的支援は関口氏
がほとんどしたそうです。

今は崇教も文明も共に三代目の時代で別教団として
それなりに落ち着いてきましたね。
13投稿者:tokumei  投稿日:2013/03/04(月)03:19:22
岡田光玉(良一)は戦時中に山梨県大月市に疎開したが、そこで井上甲子
(恵珠)さん(S4.12.16生)と出会った。世話になったのが彼女の実家の2階
である。彼女は当時大月市民病院の看護婦をしていた。
光玉は、そこで世界救世教を知り、戦後に救世教を頼って上京した。

光玉は、昭和34年妻と離婚したが、妻と実娘は親戚をタライ回しになった。
この時、養女(愛人)として籍に入れたのが後に、岡田恵珠となる山梨県
で看護婦をしていた井上甲子さんであった。

光玉は親類縁者と絶縁状態になり、彼の姉や妹、それに甥も姪も、誰一人
として真光に入信しなかった。
14投稿者:天狗の鼻  投稿日:2013/03/04(月)03:36:53
昭和34年以前の、最初の啓示とはいつなのか?
大峰老仙とは塩谷博士とは?

誰だかわからないけど、偉そうな人達のように聞こえる?

・大聖主 p304・初級、中級真光研修用テキストに記述がある。
「昭和23年12月24日「ヨのみ役」について、神示を受く。」

解説:塩谷信男氏は、真の道協会(心霊研究)に所属していた方で、この方が
「ヨのみ役とは、岡田光玉」と言ったのではありません。

真光では「ヨのみ役」とは「ヨニマス大天津神のみ働きを現界にて代行する
役、与(ヨ)である」と教えています。岡田光玉の「ヨのみ役」であると
塩谷博士が認めたなら、光玉を崇め真光の業をしてもよさそうですが、「ヨのみ
役の光玉」に従って、「真光の業」を実践せず、塩谷氏独自の真名手(真の道の
儀式)を続けていたが、真の道協会を去ってから、「手当て療法」をしています。

大峰老仙とは、真の道教団で行う「天杖=フーチ」に降りてくる神霊とされており、
聖徳太子に使えているとされています。真の道教団HPに詳しくかかれています。
15投稿者:DR、K  投稿日:2013/03/10(日)01:34:17
元軍人達に、利用された初代岡田光玉の愛人の岡田甲子さん!

岡田恵珠は、分裂時に老人同士の対立と思惑に巻き込まれ、一方の御輿に
担ぎ上げられた可哀想な存在。
光玉旧知の旧軍人系の友森、松平らと、教団に莫大な寄附をしてきた根っ
からの事業家気質の関口の対立。
恵珠自身も、光玉の遺言通り二代は関口と思っていたが、それに強硬に待
ったをかけたのが関口のことを毛嫌いしていた友森。

分裂時も関口側との話し合い時も法廷でも、およそ自分の言葉で話すこと
が許されなかった恵珠の立場は、操り人形同然。
恵珠がトップになることを欲して発生した騒動ではないということ。
醜い老人たちの権力争いが分裂の真相。

文明、崇教どちらが正統か以前の腐った骨肉の人間争い物語!
16投稿者:真光はインチキ  投稿日:2013/03/10(日)23:08:42
元陸軍中佐岡田光玉は、天皇崇拝者であり天皇のために国のために
「陸軍の飛行機工場を経営していた」のですが、元軍人が中国侵略
戦争に加担した事実、どんな理由があれ、許されるものでは無い。

光玉は、人類教を掲げる神の地上代行者、真光の初代として相応しいでしょうか?

光玉は、「戦時生産で天皇のため国ため役に立つ、と、陸軍の飛行機
を製造し戦果に貢献した」というのは、元軍人として立派である、と
考えて欲しいのかもしれません、一方、そう考えた光玉も、所詮戦争
の時代の枠を超えていなかった、との見方も可能ではないでしょうか。

「お国のために・天皇のために」が「人類のために」と言葉ではすり
替わっても、天皇崇拝、日本が世界の中心であるべきである、と言う
思想は継続していた。
さらに「天皇崇拝、天皇中心の世界」を唱えながらも、自分の始めた
、真光(崇教)を中心に、「八紘一宇」を「万教帰一」にすり替えて
妄想世界を作って変化していったと取れます。
17投稿者:真光はインチキ商売  投稿日:2013/05/03(金)23:24:16
真光を作った軍人仲間、南京攻略に参加した旧陸軍「岡田良一中佐」
や「友森清治大佐」、「宇尾軍曹」、「松平定堯両」も実行したのかな?

朝鮮併合後【 旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き】    

一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭、体を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり、   脱走の原因となる。

一、清潔な「食事運搬用バケツ と 雑巾バケツの区別」をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、
   日本兵二名で 一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。
18投稿者:kamikumite  投稿日:2013/05/09(木)21:55:11
キリスト教スレでも、悪魔を評価したと批判された
前世は一在家=源伸(崇教信者)
真光は、キリスト教徒から見れば「悪魔崇拝」だって。

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978 :なるみん:2011/01/11(火) 00:16:13 ID:n7YEmppq
前世は一在家さんはそんなに悪魔を評価するなら悪魔崇拝すればいいです。

986 :グレン☆KoE :2011/01/11(火) 00:21:12 ID:qSXm12HN
>970 なるみん
真光は蛇信仰でサタンだから在家はもう洗脳されてしまってるのよ。
蛇系つまりサタンは生贄を要求するのよ。

だから教祖はナチスのホロコーストを肯定的にとらえるし
より多くの生贄を差し出したヒトラーを崇拝してるの。
真光自身も多くの死人をだしてる宗教だしね。
19投稿者:特命  投稿日:2013/05/10(金)03:10:59
岡田光玉は昭和三十三年結成された岡田道一の主宰していた「心霊医学会」
の理事を務めていた。岡田道一の著書、「霊癒の科学」には賛同者として
岡田聖玉の名が掲載されている。

金井南龍主宰、神理研究会「さすら」
その一
金井 石田先生ネ、、岡田○○ね、、話が横に飛んで済まないのですが、
何千から何万という具合に信者が増え出すと、信者が二ケタか三ケタ
位のとき、酒席で一緒に軍歌など歌ったときには、嘗っての軍人のとき
のスナヲさを裸になってサラケ出しましてネ、コイツ、好いとこある
わいなんて思ってたんですかいつしか「生き神様」の「積分人間」に
なって了うと、無学文盲ならソレで押し通せますが、彼は高級将校で
理性のカケラがあったでせう、、それで、絶対自己の矛盾撞着を感じ
ていたんですネ。 その統一の場とは死でしたよ、、、

石田  馬鹿と気狂い、、、は長生きすることに、、、
20投稿者:特命  投稿日:2013/05/10(金)03:11:30
その二
世の中宗教裁判位六ヶ敷しいものはない。ということを奥弁護士は其の体験
からして云われている。氏の懐旧談は中々蘊蓄に富んで居るのである。
二木博士(岡田道一の間違い)創設の心霊医学会に奥さんと家内(金井)
さんは好く理事としてその名の如く隣り合って座ってたものである。

「彼、わしの顔は、人間であるならば、マトモに見られたものでないのに、、」「狐霊(どうぶつ)だからシャーシャーしてますよ」

これは岡田光玉理事のことについての二人の囁きである。物価統制時での
岡田氏の違反や、彼の女性関係での破廉恥行為に対する数度の裁判沙汰の
とき、奥弁護士は岡田の弁護を、両人とも熱海の救世教での顧問弁護士と
支部長、知己(チカヅキ)以来、岡田氏の裏切り独立営業での度重なる
裁判沙汰で、引き受け、岡田の戸籍を汚させなかった。
(原文、漢字の誤りの他、そのまま)
21投稿者:匿名  投稿日:2013/06/23(日)04:56:49
崇教真光50年史 43頁
翌年の昭和28年(1953)救い主様は借金返済を進めていくため、
「光発興業」という会社を設立しました。

この頃、救い主様は「岡田龍道」いう名前をペンネーム的に使っておら
れます。ペンネームと言いましても神様からお導きを受けてお使いにな
ったお名前です。

当時、救い主様と交流のあった人は親しげに「龍道さん」「龍道先生」と
呼んでいました。時を同じくして、救い主様は知人の紹介で「多田建設」
という会社に顧問として迎えられています。

文明教団立教の昭和34年「天地一切神の声.........光玉と名乗れ...」より
「六年も前に」神様からお導きを受けた「岡田龍道」「龍道先生」を名乗っていた事になります。
22投稿者:匿名  投稿日:2014/08/30(土)23:15:06
そんなえらい 光玉も 脳溢血で死ぬときは 狂い苦しんで逝ったそうじゃないか。  これは幹部さんから聞きました。
23投稿者:匿名  投稿日:2014/09/30(火)22:09:58
>21 「ゴムの足袋を何億も売って 借金を返したと聞いたよ」

と組手は言っていた。・・・・バカ 正直に行商をしたら何年かかりますか
24投稿者:匿名  投稿日:2018/04/15(日)01:09:35
B29の空襲で。光玉の航空機の軍需工場が全焼した。
その謝金は膨大で返しきれるものではなかったね。
25投稿者:匿名  投稿日:2018/04/15(日)01:12:21
救世教時代から光玉先生を慕って文明についてきた組み手がかなりいたので
崇教の八坂の書いた「借金返しの嘘が」ばれてしまったね。
26投稿者:匿名  投稿日:2018/04/25(水)09:16:28
岡田光玉のパクリ屋人生と神様商売の半生

1947年(昭和22年)岡田良一(光玉)は47才の時に世界救世教に入信、
二年後に教団幹部となり宗教で収入を得ていた。
世界救世教でのお光りさんは⇒御み霊、浄霊⇒お浄め、自然農法⇒陽光農法、
手かざしはそのまま手かざし。その他いろいろ宗教的なノウハウはココで覚えた

竹内文書研究の第一人者である高坂和導氏も熱海に1週間泊まり込みで
光玉と聖珠に直接指導(すべて録音)し、教えにも取り入れられている
と近い関係者は言っている。高坂和道氏と竹内文書

http://memo.kouheibun.com/blog-category-15.html
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